かたちが意味になる前に   稲垣元則《The Light》の場合

断片的で、未完成で、情報量にとぼしい……こうした、通常ならネガティヴに響く形容の数々が、稲垣元則の作品においては、一転して肯定的な価値を得る。つまり、「分からなさ」こそが稲垣芸術の本質である、というわけだ。どういうことか。

2018年の春から夏、およそ半年にわたり上映された作品《The Light》を例に取ろう。鉛筆でたどたどしく線を引いていく手、静かにたゆたう波、風にそよぐ花々、等々と、そこに映しだされる出来事はたしかに緩慢で、もしかしたら退屈ですらあるかもしれない。だが問題は映像の中身でなく、むしろ作品が置かれる外的な状況のほうである。それもそのはず、《The Light》が上映される場所は、サワラギヤという民間の店舗、大阪府茨木市内を走る府道沿いの日常空間であるからだ。しかも、上映時間は日没から日の出までの夜間に限定されている。

店舗のガラス戸に投影される本作品を、ひとは外から、より厳密には道路の向こう側から眺めることになるだろう。長辺10メートルほどもある画面を一望しようと思えば、どうしても作品に対して距離を取らざるをえず、逆にその「正しい」鑑賞位置からはずれたら(たとえば、たまたま店舗のすぐ脇を通り過ぎる者にとって)、《The Light》は作品である以前、茫洋たる光の塊としてしか認知されないはずである。ひとはこの作品になかなか気づけないし、仮に運よく気づいたとしても、今度はその意味するところがよく分からない。

このように稲垣の手がける作品は、違和感、あるいは不可解さをこそ重視する。頼りなげな描線や色斑による素描も、また白黒に変換され匿名化された風景写真も、その目指すところに変わりはない。意味づけられること、言葉で説明されることへの抵抗。ひとつの意味に固定されず、いつでも「別の何か」に変転しうる余地を残しておくことが、その仕事の中核だと言えよう。稲垣芸術の「分からなさ」は、何も説明しないことを、つまりは前-意味的にただ在ることだけを追求した帰結である。

では、その「前-意味」性とでも呼ぶべきものは、私たちに何をもたらすか。いまいちど《The Light》を例に取るならば、この問いに対する答えもまた、作品が設置された場所から浮かび上がってくる。野外の日常空間にありながら、声高に注目を集めることもしないその寡黙な作品は、ある種の異物として、「日常」であることそれ自体に風穴をうがつだろう。ふだんの私たちは、目にするもの、行動することの一つ一つにあえて注意を払わない。意味で織り上げられた世界、いちいち立ち止まって考える必要のない「分かりきった」日々を生きているからだ。だが、存在理由の定かならぬ《The Light》のような作品は、そんな日常を、居心地悪く塗り替える。「いま、私は何を見ているのか」と素朴に問い、日々の流れにささやかな竿を差す、そんな態度を起動するためのトリガーがこの作品だと言えようか。

アートを活用したまちづくり、という名目のもとに生みだされた《The Light》であるが、その貢献のありかたは決して分かりやすいものではない。だが意味以前にとどまろうとする稲垣の実践は、より根源的に、私たちの生と関わっている。


福元 崇志 Takashi Fukumoto(国立国際美術館研究員)































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